2016年7月15日金曜日

【第42回】保護する責任④

「保護する責任(R2P)」とは、どのような概念でしょうか。

そもそもこうした概念の登場の背景には、国際政治上の様々な悲惨があります。R2Pに直接つながるものとしては、1992年から93年にかけての国連平和維持活動のソマリアにおける大失敗、1994年のルワンダの大虐殺、1995年のボスニア・スレブレニツァにおける虐殺、そして、1999年のNATOによるコソボ空爆があげられます。どの事例も、国家が国民を保護できず、あるいは、保護する意思がなく、それに対して国際社会が対応したにもかかわらず十分に機能できなかったものです。こうした事態により有効に国際社会が対応するためにはどうしたらよいか、という問題意識がR2Pという概念の登場を促しました。

こうした人道的な危機において、国際社会の活動の前に立ち塞がるのが、国家主権と内政不干渉原則という概念で、上にあげた事例のどの場合でも、こうした国際法上の原則を忖度(そんたく)することで、対応が不十分に終わり、結局は、大規模な悲惨を抑止することができなかったのでした。国家主権と内政不干渉原則という概念に、いかに風穴を開けて介入・干渉を実行するか、そのための有力な概念の工夫こそR2Pであるのです。

「保護する責任」とは、国家主権には人々を保護する責任が伴い、国家がその責任を果たせない場合には、国際社会がその責任を国家に代わって果たさなければならないというもので、国際社会の「保護する責任」は不干渉原則に優先するという考え方のことです。

国連は、その憲章において、本質的に国家の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を持たないとされているのですが、そうした限界を踏み越えようとする試みと位置付けられます。

それ以前にあった「人道的介入(干渉)」という概念とほとんど違わないように見えますが、「人道的介入」が介入する側の視点、ある意味、上からの目線であるのに対して、R2Pは、支援を求める側からの視点であり、また、第一の責任はあくまでも当該国家にあるのだという視点がもたらされる故に、国際社会により受け入れられ易い概念であると言われています。

保護する責任が、主権国家にあるだけでなく、それが国家によって実現しない場合には、国際社会にその責任があるとしたことに大きな特徴があると言えますが、この概念にも多様な問題があります。
そもそも国際社会とは何でしょうか。誰が、国際社会による、ある国家に対する干渉を決定するのでしょうか。国連安全保障理事会がもっとも相応しいのは言うまでもないのですが、経験的に言って、重大な問題になればなるほど、安保理がうまく機能しないことは明らかです。

また、国際社会による介入は、ある意味、余計なお世話であって、それは新しい植民地主義であるとの議論もあります。国連による介入のある段階では、委任統治的な段階が確かにあるわけで、それは、植民地主義の延長線上の政策に非常に似通ったものとならざるを得ません。植民地から独立した諸国が多数を占める国連においては、こうした議論はなかなか難しいのです。

ゼミで読んだ国連の報告書とは、以下のようなものです。
20009月にカナダのアクスワージー外相が設置した「干渉と国家主権に関する国際委員会(International Commission on Intervention and State Sovereignty ICISS)」が、200112月にアナン国連事務総長に対して提出した報告書です。そのタイトルが「The Responsibility to Protect(保護する責任)」。ICISSの委員長は、ギャレス・エバンス元オーストラリア外相とアルジェリア人であるモハメド・サヌーン国連事務総長特別顧問。委員は、カナダ、アメリカ、ロシア、ドイツ、南アフリカ、フィリピン、グアテマラ、インドの学者や政治家や外交官でした。委員会は、世界各地で、政府関係者、学者、NGOなどを招いて議論を行い、この報告書をまとめ上げていきました。


ゼミ生たちが格闘したのは、このような報告書だったのです。

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http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html 

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