2016年7月30日土曜日

【第43回】保護する責任⑤

国連事務総長への国際委員会の報告を読んで、ゼミ生たちに与えた課題は以下のようなものでした。

「保護する責任という概念の限界と可能性について考察せよ」

日本人は、国連に対して、幾分か的外れと言ってもいいくらいの超国家的な存在としての期待をしているように思います。しかし、国連憲章を始めとする多様な国連発の文書を読んでみると分かるように、国連とは、とことん主権国家の集合体に過ぎず、主権国家の持つ諸々の権利を侵すことなく存在する、まさに国際機関であるのです。主権国家の立場から考えてみると、自らの持つ主権を脅かされない限りにおいて国連の存在を認め、それに加盟するかもしれない、ということいになります。

ですから、国連から出される文書を読んで、てっきり国連が超国家的な存在であると思っている人がまず第一に感じることは、無力感であると思います。主権国家では解決できない問題に取り組むのが国連だと思っていたのに、その国連は何よりもまず主権の絶対性を肯定し、そこを出発点として問題に取り組もうとすることが明らかだからです。

ゼミ生たちは若いのですから、こうした「現実」に対して大きな疑問を感じて欲しかったのですが、彼らは案外大人で、主権の絶対性やそこから導き出される内政不干渉原則という現在の国際社会の大原則や常識に根底から異を唱えることはありませんでした。
私は、こうした常識に疑問を呈して、ゼロベースで国際秩序を考え直すゼミ生が出てくることを、実は望んでいるのですが、残念ながら、なかなかそういう学生は現れません。もちろん、そのような試みはどこかで挫折せざるを得ないわけですが、この挫折を乗り越えて初めて現代の国際社会を考える眼が養われるのです。私の場合、若い時分に国連に失望し、それでも国連しかないのかと思い至るまでに10年以上の時間を要しました。

この年のゼミ生の論文には、現代の国際社会を根底から問い直すようなワイルドな論文はありませんでした。保護する責任という新しい概念の限界と可能性を、それなりにうまくまとめたものが揃ったわけですが、全体として、保護する責任という概念の登場に可能性を認めるものの、将来性についてはよく分からない、というのが共通した結論であったと思います。


英文を読みながら全員が痛感していたのは、まさに無力感でした。悲惨な状況に置かれている人々に手を差し伸べるという行為ですら、国家主権と内政不干渉原則にがんじがらめに縛られて、また、大国や周辺諸国の利害関係に翻弄されて、結局は、うまく機能する余地がない。それらの間にあるかもしれないわずかな隙間に新しい概念を埋め込むことで、そうした行為を実現しようとするわけですが、それすら簡単にはいかない。そして、その間にも多くの無力で無実の人びとが悲惨な状況に投げ込まれ、そこから抜け出せないまま放置される。どうにかならんのかねえ、というのが毎回のゼミでの私たちの感想でした。それと同時に、私たちがいかに恵まれた環境で生きているかを痛感するのでした。

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