2017年1月30日月曜日

第55回【1989 時代は角を曲がるか⑩】

1989年」を一年間掛けて振り返ったわけですが、ゼミ生たちには、最後のレポートとして、「1989 世界は確かに曲がり角を曲がった、なぜならば・・・」の「・・・」の部分を埋めて、それについて解説をしなさい、という課題を出しました。

6人のゼミ生のうち、3人が東欧諸国の民主化と自由化によって世界は大きく変化したと論じました。この時点ではまだ、ドイツの統一は不透明でしたし、まさかソ連が解体するとは誰も考えていませんでした。それでも、確かに、世界は明らかに変わったかのように当時も論じられましたし、毎日のニュースを見て聞いて、そのように感じられました。彼らもその点を捉えたのだと思います。

1人は「ゲームボーイというアイディアが登場したからだ」と論じました。トフラーの言う「第3の波」の真っ只中に今私たちが生きているのだとすれば、確かに、こうした「道具」の変化は、私たちの生活を根底から変える可能性がありますし、すでに私たちはそれを実感しています。こういう感じの最初は、たぶん、70年代終わりのソニーのウォークマンだったのではないでしょうか。

残りの二人は、日本の変化に着目しました。ひとりは「豊かで平和な日本が崩れ始めた」と論じ、もうひとりは「バブルを経て、日本は先進国からその先の何か別の領域に足を踏み入れた」と論じています。世界の変化はもちろん重要ですが、それが日本の変化と密接に関わりを持っているのだとすれば、日本の変化もまた世界の変化の現れであると考えられます。

学生と同じ課題をこなした私も、日本の変化に着目しました。実は、4月にゼミの1コマを使って、ゼミ生たちに以下のような話をしておきました。この話とゼミの最後の課題とを繋げて私はゼミ生に報告をしたのですが、まずは、4月に話した内容(「私たちは今どこにいるのか」)をご紹介致します。

私たちは今どこにいるのか、というのが今年度の問題関心のひとつです。これと密接な関わりを持つ問いは、私たちはどこから来たのか、というものと、私たちはどこに行くのか、というものだと思います。

「私たちは今どこにいるのか」という問いは幾分漠然としているので、今年度は「私たちは過渡期に生きているのか」というような問題に少し焦点を絞りました。仮に過渡期に生きているとすると、いったい、その過渡期はいつ始まったのか、いつ終わりそうなのかを考えてみなければなりません。どこからどこへと言い換えてもいいかもしれません。

これだって様々な仮説があり得ます。そこで、今年度は、1989年がその分水嶺であったか否かを確かめようというわけです。言わずと知れたことですが、1989年は冷戦が終わったとされている年です。この年に冷戦が終わったとすると、冷戦とはいったい何であったのか、というような問題を次に設定することも可能かもしれません。とはいえ、別に、冷戦が今年度のゼミのテーマであるわけではありません。
時代が曲がり角を曲がるとはどういうことでしょうか。ある事件の前後で世界がガラッと変わるという風にイメージできますが、そんなことあり得るのでしょうか。個人の生活ならばそれはあり得ます。私は小学校・中学校で転校を繰り返しましたが、転校の前後では友達の総取っ替えですから、それは大きな変化で、曲がったという感覚が得られます。ところが、社会全体となるとそうはいきません。当然のことです。ただ、明治維新の前後や第2次大戦の前後はたぶんそうした感覚の得られる時代だったのだろうと思います。1989年はどうだったでしょうか。

時代が角を曲がったとするためには、何かそのための象徴的な事件を設定する必要があります。時代の変化とは普通数十年を要するものと思いますが、その数十年の中の、その変化を象徴する出来事がその変化の象徴となるわけです。1989年のベルリンの壁の崩壊はそのような象徴的な事件でしょうか。

4月に行った学生に対する講義を次回も続けます。

 ※このブログは毎月15日、30日に更新されます。


http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html 





0 件のコメント:

コメントを投稿