2019年3月16日土曜日

第106回【ひとを殺す道具⑧】

2013年度は、「人を殺す道具」をテーマとしてゼミを行いました。年度末には「武器の両義性」と題して恒例の締めの講義を行いました。何回かに分けてこの講義をご紹介致します。

今年のゼミのテーマは「ひとを殺す道具」でした。当初考えていたよりもはるかに難しいテーマだったと今になって思います。「ひとを殺す道具」を最初は素直に「武器」と考えていましたが、それについて真面目に考え続けてみると、人を殺す道具が武器だけないことに気が付きました。そもそも私のこのテーマの原点には、「人殺しのハードとソフト」という関心があります。去年のテーマ「民族自決」はそのソフト、一昨年のテーマ「核兵器」はそのハードだったわけで、今年のテーマ「武器」は一昨年の延長戦の感じが濃厚にありました。ところが、核兵器のような単一の武器から、テーマを、武器一般に広げてみると問題意識も拡散してしまったような気がします。

そもそも武器とは何でしょうか。ピストルや大砲、戦闘機や空母、地雷やミサイルというのは非常に分かり易い例です。戦争に使われる、あるいは、使われたものということで言えば、犬や馬、鳩でさえも武器の一部と考えることができるかもしれません。

ゼミの開始前に、つまり、テーマだけ決めてまだ新学期が始まっていない頃には、私は、戦争の仕方、すなわち、戦略、戦術に大きな影響を与えたものとして、腕時計を取り上げてお話をしようかと思っていました。腕時計が初めて使用されたのは、実は、ボーア戦争におけるイギリス軍においてで、時刻を決めて、かなり離れた場所で正確に同時に戦闘の開始を行えるようになったという点で画期的な出来事でした。腕時計のようなものでさえも、すこし遠回りではあるけれど、人を殺す道具たり得るのだという話をかなり詳しくしようと思っていたのです。

しかし、ゼミでこのテーマを考えるうちに、私の考えは別な方向に向かいました。道具そのものよりもむしろそれを使うことの意味を考えるようになったのです。

そもそも武器は両義性を備えた存在です。敵を殺すための道具であると同時に、武器は、味方を守るための道具です。戦争であれば、敵は敵国であり、味方は祖国ということになります。現在ではなかなか単純にはいきませんが、戦争では、敵と味方の軍隊が武器を持って戦うわけです。そこにはルールもあります。ところが、現代においては、話はもっと複雑になりました。軍隊を背後で支える国民も武器のターゲットの一部になりました。ゲリラ戦やテロにおいては、誰が敵で、誰が味方なのかもよく分からない状態です。

武器の両義性――敵を殺し味方を守るということ――を考えると、もっとも重要なことは、敵と味方の峻別、言い換えれば、誰が敵かを確定することです。究極的には、味方を守るために武器を用いて敵を殺さねばならないからです。学生時代にカール・シュミットの『政治的なものの概念』を読んで、政治の核心は「友と敵の区別」であるという有名なテーゼは知ってはいたのですが、今年のテーマを通じてそれを再発見したような気持になりました。いや、身に沁みて分かったと言うべきかもしれません。

人殺しはいけない、と言われます。もちろん、そうです。しかし、究極的な局面でもそれは一貫できるものの考え方でしょうか。できるのならば、なぜ人は「ひとを殺す道具」を作り続け使い続けるのでしょうか。あるいは、場合によっては、人は人を殺さなければならないのでしょうか。そうだとすれば、それはどんな場合でしょうか。私の関心は、道具よりもむしろ「人を殺す」ということの意味の方向に向かったのでした。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。





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