2019年12月30日月曜日

第124回【戦争に負けるとはどういうことか⑧】

アメリカの国際政治参入までの近代の戦争においては、無差別戦争観が支配的でした。戦争とは、善と悪の戦いではなく、すなわち、交戦国間に正邪の区別はなく、戦争自体も紛解決手段として位置づけられ、まさに政治の延長として機能していたのです。戦争は自国の存在を賭けて戦うものではなく、具体的な争点の処理をめぐるものに過ぎなかったのです。

第1次大戦は、ヨーロッパの諸国がその存在を賭けて戦う戦争となってしまいました。戦争の帰趨を決定づけたのがアメリカの参戦で、これが世界の戦争の在り方を変えたと私は思います。だから、20世紀は、確かに、アメリカの世紀なのです。アメリカは戦争に善悪を持ち込みました。これ以後、戦争は正邪の戦いと変化しました。ある意味で、近代が終わり、中世に逆戻りしたかのような変化です。逆説的ですが、だからこそ、戦争は禁止されるようになったのです。1928年のいわゆる不戦条約によって戦争は禁止されるようになりましたが、それ故、戦争は、それが起きるとすれば、正義の、悪に対する戦いと位置づけられる以外に存在のしようがなくなりました。そして、正義は悪に妥協はできないのです。

日露戦争以降の戦争は、それ自体がそもそも大変に悲惨なものです。戦争を悲惨なものとしたのは、第1に、科学技術が発展し武器が限りなく進化し殺傷能力を高めたことによります。第2に、戦争が限定されたものでなく、国家のすべてを賭けた全面的なものとなりました。戦争があれば、国民のすべてが戦争から大きな影響を受ける時代となったのです。それ故、戦争の悲惨さは、誰もが知るところとなりました。しかし、戦争は、確かに悲惨ですが、敗戦はさらに悲惨であるということは必ずしも意識されていません。

近代の古典時代の戦争においては、必ずしも敗戦は悲惨ではありませんでした。もちろん、戦争自体が現代ほどに悲劇的な被害を及ぼすものではありませんでした。その時代の敗戦とは、紛争の争点における譲歩を意味するに過ぎませんでした。それとて一時的なもので、将来における戦争によって取り返しの出来る譲歩と位置づけられていました。勝者と敗者に正邪の区別はありませんでした。

それに対して、現代における敗戦が悲惨であるのはなぜでしょうか。

私は、それは、戦争に負けた側がアイデンティティの変更を迫られるからだと思います。つまり、現代においては、戦争は、単に戦争が終わって争点が処理されるだけでなく、敗者は過去とは異なったアイデンティティを求められるのです。言い方を変えれば、「アイデンティティの喪失が強いられる」のです。

メアリー・カルドーは、「新しい戦争」という概念を提出して、現代の、以前とは異なった性質を持つ戦争を理解しようとしました。新しい戦争とは、アイデンティティを争う戦争で、現代におけるテロや内戦に特色的に現れているとしています。つまり、ある特定の地域に多様な価値を許さず、その地域を一つの価値観で塗り潰そうとする一種の運動を新しい戦争と考えるわけです。その地域に住む人々は、持ち込まれた自分たちとは異なった価値を受け入れて生き続けるか、あるいは、その土地を捨てて出て行かざるを得なくなるのです。現代の紛争が大量の難民や国内避難民を生んでいる理由がここにあります。

しかし、よくよく考えてみると、「アイデンティティ・ポリティクス」を中心とした「新しい戦争」は、最近になって現れたものでしょうか。私は、今年のテーマを1年間考え続けるうちに、これはけっして新しいものではなく、アメリカの国際政治への登場と共に現れた現象だったと思うようになりました。現代のテロや内戦の根本的な特色は、実は、アメリカ的であると思います。20世紀がアメリカの世紀であるのだとすれば、「新しい戦争」は突然に現れたものでなく、確かに、20世紀的な色彩を帯びているのです。

だから、20世紀における戦争の敗者の悲惨は、間違いなく、アメリカにルーツを持っています。敗者が悲惨な状況に置かれる理由は勝者の論理にこそあると考えられます。勝者としてのアメリカの論理には、どのような特色が、どのような病的な特色があるでしょうか。これこそが、20世紀において、戦争の敗者を必要以上に悲惨に追い込んだものなのです。アメリカを理解せずして20世紀を論じることはできません。

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